My memories at Dokkyo

大学に入学してからは迷わず新聞部に入部した。というのも、高校の時に新聞部の門を叩いたが、行くのが遅すぎてすでに満杯で入部を断られた経緯があるからだ。大学の新聞部では文化会のフレッシュマンキャンプや部の合宿に参加して、そこで見たり聞いたりしたことは新鮮で初めて知ることが多く、先輩たちの雄弁さに羨望したという。しかし、活動内容が次第に自身に合わない内容だと気が付いてから退部した。そして今度は、スケート愛好会に入った。夏合宿や冬合宿に参加して、それなりに楽しかった思い出があるという。3 年になってからは、「虚無と現実」を挙げた稲川忠先生のゼミに入った。そこにいるゼミ生たちは皆個性的で、フランス文学、音楽、映画、絵画など自分の好きなテーマを追求していた。また、ゼミの先輩たちにも憧れたという。堀尾さんは当時熱入れをしていた、シモーヌ・ド・ボーヴォワールをはじめとする「フェミニズム」を研究して発表していた。4 年になってからは、泥棒で同性愛で、監獄の中で詩や小説を書き始めたジャン・ジュネにテーマを変えて発表し、それを卒論にした。夢と希望にはち切れそうな日々もあれば、絶望の底に沈んだ日々もあったあの 4 年間は、かけがえのない青春そのものだったと振り返る。


My story

堀尾シェルド裕子さんの歩み

大学時代の経験から留学や米国公認管理栄養士へ

留学や米国公認管理栄養士になったきっかけは、大学を卒業してからのマクロビオティックとの出会いなので直接は関係ないが、強いて言えば大学が外国語、特に英語が評価されていることから、新卒で就職した洋書の輸入販売会社に入りやすかったことだという。詳しくは本の中で書いてあるが、その会社の中でマクロビオティック(玄米菜食健康法)との出会いがあり、やがて留学や米国公認管理栄養士の道へと繋がったためである。余談だが、その会社は獨協大学の卒業生が 6 ~7 人いて、「獨協会」と称した年数回の飲み会があって、それが楽しみだった。

マクロビオティックと留学

洋書の輸入販売会社の中で音楽クラブがあり、フルートを習っていたが、そのフルートの先生からマクロビオティックの話を聞いたという。それが縁で、マクロビオティックを広めていた久司道夫先生のもとへ行くことになった。ところが、図らずもギリギリで不法滞在をしてしまい、緊急帰国した。その時に米移民局から、10 年間アメリカに入国できないという宣告を受ける羽目になった。その制裁を何とも払拭したいともがいているときに、友人からの電話で留学という構想が持ち上がった。どのように留学手続きを進めたか、どのようにして学生ビザを取得できたのか等の詳細は本の中に詳しく紹介されている。

留学はどうだったか

アメリカでは栄養学部の管理栄養士コースを専攻した。留学が始まってからは苦労の連続だったという。TOEFL の点数がとれただけで、もともと英語ができたわけではないので、授業の内容を耳から吸収することはできず。教科書をただひたすら読むことだけでカバーしていた。一科目一科目、一学期一学期、目の前を見て進んでいくしかなかった。ただひたすら、レールを踏み外さないようにして。

卒業してから

栄養管理士になるためには、学士号を取得して栄養学に関連した必修科目を全て取った上で、インターンシップに入らなければならない。インターンシップに入るのは数が少なく、競争率も高いことから簡単ではなかったが、運良く入ることができた。1 年近くのインターンシップを終えた後で、はじめて栄養管理士の受験資格ができる。合格したのは 3 回目の試験だった。。

就職について

一度管理栄養士の資格を取得してしまえば、一般的に就職はそれほど難しくはないが、堀尾さんの場合はハンディがあるので大変だったという。長期療養施設、病院、老人ホームなどで働いた。その中で、いじめや解雇も経験した。でも、8 年程前についに心優しく公正な現在の上司の下で働き始めることができ、現在に至る。それは、ニューヨーク州立の退役軍人老人ホームである。70 歳までのあと数年間働く予定だという。

Message for you

獨協生へのメッセージ
著書の「44 歳からの留学― 67 歳現役米国公認管理栄養士、20 年の奮闘記」(発行:株式会社 Book Trip)にはマクロビオティックとの出会い、留学前のことから留学中や米国公認管理栄養士になってからぶち当たった困難、それを乗り越えたことが紹介されている。
「私がこの本を書こうとした動機は、昨今ますます高まる留学ブームと高齢化社会だ。留学が奨励されて、文部科学省が留学キャンペーンをしたり、留学を必修化したりする大学も出てきている。一方で、平均寿命も年々延びて高齢者が増加し、人生の活動期間も延びた。人生の請託氏が増えて多様化し、それぞれ謳歌されている。もし「年齢を戻す」と言われても、もう一度やり直す勇気はない。でも、苦労の見返りとして、専門職として誇りを持って働く今がある。私の体験が良しにつけ、悪しきにつけ、何かの参考になればと思う」(著者の前書きより)

 


(取材:金厚佳祐)

文中の記載内容はすべて取材当時のものです。